無所属へのこだわり
現在、保守系・無所属として頑張っております。
ただひたすら純粋にひたむきに、常に市民目線で活動したいという思いからです。
市議会議員という、最も市民の皆様の身近な政治家としては政党という枠組みに囚われるより、
しがらみのない無所属の議員が市民の皆様にとって必要なのではないかと考えております。
確かに、新人で無所属無会派、厳しい環境ではございますが、
「某政党のAさん」だから投票した、というのではなく、
「たつみ直子」だから応援するんだ、と言って頂く議員になるべく日々精進しております。
女性が選挙に出るという事
まだまだ男性の世界だという政治の世界。
国会における女性議員の割合は
令和6年10月の衆議院議員選挙において
立候補者23.3%、当選者は15.7%に止まっています。
立候補しようという高い志、地盤・看板・鞄といわれる選挙の三種の神器を揃え、
24時間365日選挙の事を考えるなんてそうそうできるものではありません。
そして当選して議員となった後も、結婚、出産、子育てといった人生のライフステージをどう乗り切るか。
私のエピソードを少しご紹介します。
私は女性でシングルマザー、つまり、ひとり親として2人の子供を育てながらの立候補でした。
ですから、政治家としてのスタートは決して早くはなく、子供たちが中学生の時でした。
長女の受験と私の選挙が1月で丸被りでした。コロナ禍で初めての子供の初めての受験、
代わりのきかないひとり親として、もっと彼女にしてあげたかったという思いはずっとあります。
幸いしっかり者の長女は自分で何でも決めてきたので助かりましたが。
当選し、3月本会議と長女の卒業式が同じ日になりました。議員は公務優先。
大切な行事である卒業式ですが、議会開始前の30分だけ出席し、議会に向かいました。
会社なら有給休暇が取れるはずですし、普通は卒業式や入学式は休んで出席できるでしょう。
しかし、議員は公務優先なのです。
卒業式出席したいですよね、と他の議員に言うと「嫁さんが出るから」とおっしゃいました。
ああ、やはりこの世界はそういう事なのですね。
女性が立候補し、当選し、議員活動を続けるのが難しいのだという事がたびたびあります。
その一つが朝や夜の駅立ちです。
朝や夜、人通りの多い駅前に立ち、挨拶したり、ビラを配ったりする議員をよく見かけると思います。
名前を覚えて貰うには効果的だという事で多くの議員仲間が朝夕駅立ちをしています。
私も、、、、と思うのですが。
子育て中のお母さん議員は、子どもの朝食を作り、お弁当を作り、子どもを送り出し、
あるいは子供を保育園に送っていき、と、とても自分の駅立をすることは不可能です。
もし、これが当選の必須条件だというのなら、女性候補者がこの先増えるとは思えません。
駅立ちが可能なのは、シングルの方や子供がおられたらその世話を代わりにしてくれる配偶者がおられる方、
もしくは完全に子育てが完了した方でしょう。
こういう選挙の在り方を考えていかなくてはならないと感じます。
駅立ちをしている労力を得票として還元する選挙ではなく、
その人そのもの、主義や訴えや仕事によって判断して頂くべく私は努力したいと考えています。
そして、そのことが今後政治の世界で頑張ろうという女性候者が出てくる希望になるのでは、と思うのです。
そう考えると私のような議員が存在することは少しは意味があるように思えてきます。
私は、まだ見ぬ女性候補者が活躍できるように少しでも障がいのない道を作りたいのです。
PROFILE
昭和49年(1974年)9月2日生まれ おとめ座
私は茨木市お風光明媚な北春日丘、松沢池のほとりで生まれ育ちました。
両親は小さな食料品店を営み、店舗兼自宅で両親と二人の弟、祖父母という7人の大家族で暮らしました。
昭和56年4月
茨木市立沢池小学校入学
1学年5クラスのマンモス校。
松沢池の正反対側の遠い小学校へ毎日歩いて登校。
昭和59年4月
茨木市立西小学校へ転校
巨大マンション群が出来たことにより、西小学校が新設され、
沢池小学校に通う北春日丘の小学生は転校を余儀なくされる。
仲良しの友達と離れ離れになり寂しい思いをするも、真新しい西小学校に感動する。
1学年3クラスか2クラスしかなかった。
小学校の遠さは何故か変わらず。
昭和62年3月
西小学校の3期生として卒業
昭和62年4月
茨木市立西陵中学校入学
陸上部に入部する。
これから私の陸上人生が始まる。
平成2年3月
西陵中学校卒業
平成2年4月
大阪府立春日丘高等学校入学
父と同じ、憧れのカスコーへ入学できる喜びを噛み締める。
人生で最も楽しかった、と言っても過言ではない高校生活が始まる。
伝統の陸上競技部へ入部。専門は800M。毎日苦しい練習に耐える。
後日、練習の苦しみと喜びを記した作文が校内の文集に選ばれる。
平成5年3月
春日丘高等学校卒業
卒業生代表(2名)として答辞を読む。
選考理由は決して成績優秀者というわけではあるまい(笑)
カスコーを卒業しても、陸上競技部とのご縁は今も続き、
OBOG会「陸和会」の役員として今も後輩の事が気になっています。
陸上は、走るのも、見るのも大好き。
平成9年3月
京都女子大学文学部卒業
有名な東山の女坂を4年間登り切った。
女声合唱団の仲間とは今も仲良し。
平成9年6月~
国際ロータリー第2650地区
ガバナー事務所へ入局
最初は「奉仕」や「ドル建て」など何がなんだかわからないまま仕事をしていた。
自分に嬉しいことがあったら寄付をする、という考えにはまだ至っていなかった。
アフリカの子供が表紙のアニュアルレポートを見ていても、可哀そうとだなぁと思うものの対岸の火事だった。
それがチベットの小学校建設の開校式や、ミャンマー、バヌアツ等のポリオ接種、
インドのスラムなど現地へ行くたびに、どんどん「国際協力」「海外援助」の仕事にハマる。
こんな私でも役に立つ世界がある、そこに行きたい!と稲妻が走るような衝動でJICAの青年海外協力隊に応募する。
当時倍率30倍以上の「村落開発普及員」に応募し見事一発合格。
しかも、それ以外考えられなかったネパールへの要請で合格する。
余談だが、チベットに行った時に、ヒマラヤ山脈を北側から見て「この向こうがネパールです」という説明を聞き、
何故か「私はいつか必ず南側からヒマラヤを見る」とぼんやり思っていたのが実現したのだ。
平成15年1月
国際協力事業団(JICA)の駒ケ根訓練所入所
ここからネパールへの赴任に向けて候補生として約3か月間の訓練が始まる。
雪をほとんど見たこともないような大阪人が1月の長野県で大雪の洗礼を受ける。
雪かきなるものを初めて体験する。
まだ暗いうちに起きて整列、点呼、国旗掲揚、ラジオ体操、マラソン。
そして一日平均5時間の外国語の学習。
初めて見る「デバガナリー文字(インドのサンスクリットとほぼ同じ)」に不安しかなかったが、
局地的言語であるネパール語も一日5時間学習すればそれなりに読み書き、聞き取り、話せるようになる。
志を同じにする仲間との訓練所生活は、毎日が楽しく一度も大阪に帰省する気にもならず、
人生で最も楽しい日々といっても過言ではないパート2だった。
こんな私だが、派遣国の代表に選ばれ、当時の皇太子殿下にご挨拶に御所にお伺いした際に、
お話をさせて頂くという栄誉に預かった。
たいへん貴重な経験をさせて頂きました。
Nepal Story
平成15年4月
無事に青年海外協力隊員として修了し、
ネパールに2年間赴任
赴任して1週間後にネパール人家庭にホームステイ1週間行かされ、全く生活も文化も言葉も馴れないので辛かった。
中でも辛かったのは、お風呂(シャワー)に入れなかったこと。
食事をするときに、男性は(客人である私も)椅子に座るのに、女性は台所の土の床で食べるのが衝撃だった。
部屋が寒かった。上を見ると換気の為か丸い穴が空いている。
4月のカトマンドゥ盆地そりゃ寒いわけだ。
その穴から鳥が入ってきて朝チュンチュンという鳴き声で目覚めた。
人も動物も、神様も悪魔も綺麗なものも汚いものも、生も死もごちゃ混ぜ。
渾然一体となって生きている、生きていく、そんなネパール生活の最初の一コマだった。
これが私の今後の人生観に繋がっていく。
ある日、ホームシックになっているっぽい私を思ってか、そこのお父さんが日本の音楽を聴かせてくれた。
一番好きな曲だとテレサテンの「別れの予感」だった。
テレサテンは私も好きだが「つぐない」派だったので、初めて聞いた。
今、私が一番好きなテレサテンの曲は「別れの予感」だから、きっとあの時におとうさんが聴かせてくれたのが心に残っているんだろうなぁ。
その時の部屋の様子やカセットも全部思い出す。
どうしているのかなぁあの家族は。会いたいなぁ。
何とかホームステイを乗り切り、日本人調整員の奥さまに温かいお風呂に入れてもらい安らいでいたのもつかの間。
次は地方(イナルワというところ)へのホームステイへ行くことになった。
カトマンドゥからビラートナガルという町へ飛行機でいき、
そこからリキシャを見つけ、値段を交渉し、乗り換えて、歩いて、、、というのは一人でこなさなければならない。
しかも貰った地図は手書きで、
目印は交差点、銅像、木、二件目の黄色いお家、みたいな子供のらくがきのようなメモで
これを手掛かりに本当にネパールの地方の家に辿り着けるのか!?と驚愕した。
そして、コブラが出るということで、嚙まれたら自分で躊躇なく太ももに刺せ、と言われて太い注射を持たされる。
打つことになりませんように、生きて帰って来ますように、と祈りながら向かった。
現地の隊員が日本からの救援物資が首都に届いたので持って来て欲しいと言われ、
軽く請け負ったが、それが大きな段ボール一箱、、、人の荷物を開けるわけにもいかず、遠路はるばる抱えて持って行きました。
バスに乗り込むと大量のヤギが乗っていて、びびった。
人より多くてびっくりして怖かったが、ネパール人はヤギのせいで座れなくても普通に振舞っていた。
人も動物も一緒。
くたくたになりながらもなんとか目的のご家庭に辿り着いた。
ツリーハウスのような木のお家で、下は家畜小屋。
むしろをめくると木の節穴から牛と目が合うという。
ありとあらゆる虫が多くて、(マラリアやデング熱、日本脳炎予防のため)蚊帳を掛けて
日本製の蚊取り線香(日本製の蚊取り線香は虫が死ぬが、
インド製や中国製は煙が出ている間寄せ付けないだけ)を焚いて寝ると翌朝、蚊帳にぼんやり天の川がある。
目を凝らすとおびたただしい数の虫の死骸だった。
落とさないようにそーっと蚊帳から出る。
どのくらいの虫がいるのだろうと思い、毎晩蚊取り線香を焚いて寝て毎朝濃くなっていく虫の天の川を見上げる朝が続く。
誰も虫を片づけない。
四方を緑のカビとコケにびっしり囲まれた、ものすごい湿度の小屋で水浴びをする。
子供たちが日本人が珍しいので見にくる。色が白いのが珍しいからと、何を付けているんだと年頃の女の子が聞く。
泥水の川で子供たちが歓声を上げて水遊びをしている。
その脇で女性が洗濯をしている。
洗えば洗うほど、黄色くなっていく衣服。
日本より発展途上中のネパールの、そのまた地方の田舎の生活はおそらく日本の人には到底想像できないと思う。
それでもタライ平原の水田に沈む夕日が美しく、イナルワが気に入ってしまい、1週間後再訪する。
これから向かう私の赴任地ポカラは山岳地帯なのでまた違う姿を見せてくれるのだろう。
任地 ポカラ編
亜熱帯気候、ブーゲンビリヤやハイビスカスに縁どられ、町からみえる雪を被ったヒマラヤ山脈。
それがポカラのイメージだった。
飛行機で「窓際がいい」というと、「全部窓際だ」とクルーに言われ、
乗り込むとマイクロバスに翼がついたような定員20名にも満たないプロペラ機。
ヒマラヤ山脈を南側から遂に見れた!
ポカラは世界3大バックパッカーの沈没地帯と言われ、
のどかで素朴で静かな町。
の外れに私の職場ネパール家族計画協会カスキ支部はあり、
そこで2年暮らすことになる。
しかし、仕事や暮らしはのどか、とは言えない日々が始まる。
スコール!!
ネパールのポカラは亜熱帯性気候で、乾季と雨季に分かれるが、私が2年間暮らした印象としては日本のような四季がある。四季がずれて訪れる。
余談だが、2月に山道で桜のような儚いピンクの花を咲かせる木を見た時は涙が出た。明治時代の偉人が海外で客死するときに「桜が見たい」といって亡くなる話を以前読んだが、正に、その心境だった。
亜熱帯性気候とか、雨季とかスコールとか、地理の教科書でしか知らなかった世界を体験するのにわくわくしていた。雨季のスコールは夕方から大雨が降る。そして、停電する。毎日停電する。停電すると暗くて天井のファンが使えなくなるだけではない。使用している水は、家の地下に引き込まれていて深いプールのようになっており、それをポンプで屋上のタンクに汲み上げて使うので、タンクに水がない場合、水も出ない。
暗く、暑く、水も使えない夜になる。おまけに一人ぽっち。ろうそくの明かりで読書をするのが毎晩の事だった。
ある朝、えげつないスコールが降り、外を見ると周辺が一面のどろ水だった。
クルタスルワール(ネパールの民族衣装)の裾をまくり、チャッパル(ビーチサンダルのようなもの)を履いて出勤する際に、水牛の糞やら色々なにやら流れてくる。その中をちゃぷちゃぷと歩く。
これが雨季かぁと実感。上下水道は普及しておらず、公衆衛生を普及しに来ていても徒労に終わる。こんな日が何日続くのだろう。
とにかくネパールには色々な動物が闊歩している。牛、水牛。めちゃめちゃ大きい、犬、鶏、鶏っぽい見たことないような鳥。クジャク、猫・蛇、マングース。
その水牛が数頭、職場の塀に体当たりして塀を壊して敷地に入って来て驚いたことがある。
ヒンドゥー教が国教なので、牛が人間より偉い。人を轢くより牛を轢いた方が罪が重いと言われていたのは嘘か誠か。
宇宙怪獣の襲来
ある夏の夜中寝ていたら、激しい雨と雷が降り始めた。深夜にスコールかぁ、朝起きたら停電なんて嫌だなぁなんて思いながら寝ていたら突然、聞いたことのないような轟音がして、飛び起き窓を見ると夜空に緑色の凄まじい閃光がビリビリ轟いてうねっている。寝ぼけていたので、村中を照らす緑色の閃光の大きなうねりと眩しさに宇宙怪獣が攻めてきたんだ、、と呆然となり、もう駄目だと諦めて寝る。その後閃光は止み、ふっと全ての町中の光が消える。天井のファンも止まる。
朝、あれは変電所の電線が落雷によって切れて、放電している光だと判明。と、同時にしばらく停電するのだと思い愕然とした。1週間停電して生き延びれるのか?水は?冷蔵庫は?パソコンが使えないとメールも送れない、、、、まだまだ未熟な私は不安になりポカラを脱出することにした。
折しも交通ストライキをしており、バスもタクシーもリキシャも使えないので、飛行機のチケットを買い、片道5キロ、歩いてポカラ空港に向かう。やっと辿り着いたらエアはキャンセル。仕方なくとぼとぼまた歩いて帰宅する。翌日来いと言われたので、また5キロ歩いて今日こそは飛んでくれ、と祈りながら空港まで行く。
またキャンセル。二日目もまた歩いて帰る。何キロ歩いただろう、どうしようもなく悲しくて、ベッドに突っ伏してワンワン泣いた。
ひとしきり泣いて。腹をくくった。よし、ポカラでポカラの人たちといつまでも復旧を待とう。本当の意味で苦楽を共にしよう。腹を括ると女性は強い。
途上国で死ぬということ
ある時、陸路でポカラからカトマンドゥへ向かう事になった。ローカルバスでおよそ8時間程度。ご存じのようにネパールは山岳地帯。未舗装の切り立った細い山道を行く。よく崖の下に車ごと落ち全員死亡というニュースを見るので毎回ドキドキする。
昼頃、山の中に差し掛かったあたりに突然天気が急変し、空が真っ暗になり、ごおと冷たい風が吹き、豪雨と共に今まで見たことのないサイズの雹が降って来た。当たると死ぬやつ。バスのトタンの屋根にバリバリ落ちて突き破るほど。天候が落ち着いたら、今度は山道で車が渋滞し何時間も動かない。壊れた車もあるらしいが、少し先で土砂崩れがあり、立ち往生しているという。ダメだ。これは何日もかかるやつ。茶色の山肌に作られた一本道で民家もなくどうすることもできない状況。通信手段もないので、私がこういう状況というのも事務所は知らない。いわゆる行方不明状態。
しばらくすると、パラパラ山肌から土砂が落ちてきた。やばい。これは土砂崩れになる。逃げないと埋まって死ぬ。というわけで得意のネパール語で運転手やみんなに伝えて荷物を持って乗客皆でバスを降りた。
何と、目の前は一面の土石流。道のエッジがわからない。クルタスルワールの裾を捲って、足首まで粘土質の土石流に埋まり、それでも何とか1歩1歩足を引き抜きながら歩く。平衡感覚もどこまでが道かわからず、ふわっと傾くとそこは奈落の底。ぞっとした。何キロあるのか、下が見えない。それでもネパールの人が手を貸してくれて皆で泥だらけになりながらなんとか脱出。みんなで抱き合って喜んだ。
そして、ネパール人って本当に賢い!!土石流地帯の向こう側に行くと、カトマンドゥからポカラに向かうバスがあり、みんなでバスを乗り換えてカトマンドゥに向かった。
カトマンドゥに到着した時は暗くなっていたが、首都に到着した安ど感に包まれた。
こういうとき、お金持ちも、身分の高い低いも、JICAのIDカードもオフィシャルパスポートも何の役にも立たない。親切な現地の人たちに助けてもらって、みんなで協力して生き延びる、それしかないんだと叫びたかった。
国会議員のアテンドより大切なもの
ある時、ポカラにいる私の下へJICAの事務所より依頼が入る。某国会議員さんが日本から視察に来られる。つきましては職場や任地をご案内するように。
今の私なら、、、多分断らない。
しかし、当時私は今よりもっともっと純粋でおかしいと思う事は堂々と発言していた。
同じ時期に首都カトマンドゥに上京し、ネパール隊員活動機関誌を作成する仕事の委員長を仰せつかっており、委員会のみんなで集まってネパールの素敵な事や、隊員活動を1冊の本にして、世界各地のJICA事務所や隊員に配布するという大仕事があった。
で、国会議員のアテンドを断った。
当時はスマホもSNSも何もないので、隊員の安否確認は毎週金曜日の10時に無線で行うことになっていた。
なので、毎週金曜日は10時に無線の前に待機して、地方隊員とJICAネパール事務所とのやり取りを聞き、自分の呼び出しを待つのが恒例だった。その時に国会議員様のアテンドのお断りのやり取りをしたので大騒ぎ!
以下記憶を頼りに
JICA「○○日に○○議員来られます。辰見隊員の職場を視察されたいのでアテンドお願いします。オーバー」
私「あいにく先約があり、その件はお断りしたはずですが。オーバー」
JICA「その用事はずらせるでしょ。日本から与党の国会議員が来るのですよ!オーバー」
私「偉い人かなんか知りませんが、先に約束した事を優先するのが普通だと思います。オーバー」
JICA「その用事よりこっちの方が大事だと思いませんか?イエティパットラ委員会は別にしなさい。オーバー。」
私「そんな偉い方のアテンド、やりたい方たくさんいるでしょう。私は申請も出して許可された仕事です。みんなも都合付けて地方から来てくれます。断るなんてできません。それに、隊員が下で命令を聞く立場で、事務所が偉いなんておかしいと思います。オーバー」
後から聞くと、地方隊員みんな無線の前で固唾を飲んでやり取りを聞いていたらしい。
なんとも、忖度、とか、上の命令を絶対、とか、偉い人にへつらう、とか出来ない時代の私のエピソード。
月の光
開発途上国であるネパールの地方都市のポカラ、の更に山奥の村のお話。
お伽話か昔話か、というような村を想像して頂きたい。のどかで風光明媚で、何の情報も入ってこない、生まれてから死ぬまでこの村しか知らない多くの村民たち。年に一度づつ「HEALTH CAMP」としてそういった村々に行くことがある。村外からの訪問者に興味津々で、村中の人々が体重を計ったり、血圧を測定したり、ビタミン剤を貰うために長蛇の列になる。村人のほとんどは文字が読み書きできない。識字率は極めて低い。数年に一度乗る体重計の数字さえ読めない。だから私がネパール語で体重を伝える。外国語を勉強してよく言われることは、数字に反応できたらなかなかのものだ、と。
まだネパール語に自信がなくても、私の伝える体重の数字でおじいちゃんが、おばあちゃんが、若いお母さんが、一喜一憂する。これは、まだネパール語が、、、なんて無責任な事は言えないのだ。だってこの数字で何年間も私の体重って言うんだよ。間違って伝えてもそれが間違いだってことも気づかない彼らに私が出来ることを精一杯伝える。
レジスターも文字が書けないから私が名前と年齢を聞き取って記入していく。村人たちは不思議そうにその文字を見る。英語で書かれた自分の名前を見る事が初めてなのだろう、はにかんで笑う少女。そうよ、これがあなたの名前よ。自分の名前を書いてくれと言う。そのメモを大事そうに持って帰る。
村人たちが心ばかり昼食、ダルバートを作ってくれる。鶏肉がある。きっと私たちのためにめったに食べないマス(肉のこと)を入れてくれたのだろう。青空の下、白いヒマラヤに見守られながら有難く頂く。
日が暮れる。電気はない。開け放しの窓から冷気が入ってきて寒いが、月の光を頼りにレジスターを記入し続ける。一体何時間これをしているのか。夜明けに集合して山道をバスに揺られて、この村で夜になる。電気もない中あんな山道を帰れるのだろうか、と不安がよぎる。しかし、何時間も待っている最後の1人までやり続ける。
蛍のクリスマスツリー
とにかくよく停電をする。毎日のように停電になる。暑い夜、外にでる。大きな木に無数の蛍が飛び交っている。蛍のクリスマスツリーだ!夏なのに大きなクリスマスツリーが出現する。この幻想的で美しい光景が、世界の片隅にあるのだ。
しかもそれは、町中が停電している蒸し暑い夜にしか出現しない。
クーデターと戒厳令の夜
実は、ネパールは長らく内戦の状態にあった。赴任中もマオイストという反政府組織と毎日のように小競り合いがあり、銃撃戦の音など毎晩ように聞こえ、朝刊はいつも軍隊何人死亡、マオイスト何人死亡と報じていた。私たちは銃撃戦や誘拐により身代金請求の被害に合わないように、日々緊張した毎日を送っていたのだ。
帰国も数か月に迫ったある日、クーデターが起こった。起こしたのは国王。
国内の混乱を避けるために、全通信回線を切断。インターネットも電話も通じなくなり、トリブヴァン国際空港も封鎖。タイ航空やインドエアなども引き帰す事態に。正にネパール陸の孤島。鎖国状態。その上、戒厳令が敷かれ、夜間外出禁止。たまたま私は帰国準備で首都カトマンドゥに滞在していたが、非常に緊張感のある日々を送った。自分の無事を日本の家族に知らせたいが、その手段もなく、日本の家族も心配していたと思う。
日本では平和が当たり前と暮らしていたが、ここでは自分の身は自分で守る。自己責任。国が何かしてくれるわけでもない。平和はタダではない。と実感。それでも私は祖国を愛し、優しく、助け合って暮らすネパール人が大好きで、日本人が忘れている美しいものを学ぶ事の多い日々だった。
人生にはまさか!があるとは聞くが、私がシングルマザーになるとは思ってもみなかった。
離婚当時、私は専業主婦で3歳の女の子と2歳の男の子のお母さんだった。
お金もない。仕事もしていない。どうするか?でも絶対子供たちと暮らしたい。
離婚した友人のほとんどがみんな子供をつれて実家に帰っている。それがスタンダードに思われた。
でも、、、、私は自立したい。今、実家に帰ったらしばらく仕事もしなくていいだろうし、家賃も払えとは言われないだろう。
でも、それは私がしたい生き方なのか?目の前の楽さに走るのは違うと思った。本能的に。
私はどん底から必死に努力して這い上がる人の話が好きだ。
そして、きっと多くの人もそんな話に感動するんだろう。
だって、多くの小説や映画が困難な状況でも立ち向かって行くお話ではないか。
それしか人に勇気を与えない。
もし、私が傷心のまま子供たちの手を引いて実家に帰ってたら、まぁ普通そうだよね、と思われるだけ。
そして私一人がとりあえず楽できたかなぁと思うだけ。
もしくは、こんな私に理解のあるとびきり素敵な男性が現れて、支えてくれて結婚とかしちゃって幸せになりました、ちゃんちゃん。
なんて話、そんな物語、誰が感動する?
そんなお話、私だって興味がない。
これは私が今から頑張る物語にするんだ。
そして、きっとそれがこれからの若い女性たちに勇気と感動を与える物語にしよう。
こんな状況でも志を持ち、努力する私がいれば這い上がれる。
そんな自分を支え応援してくれる人が必ず見ていてくれる。
この経験は将来必ず誰かの役に立つ。
そう信じて最初の5年はどれだけ苦労してもよいだろうと腹を括った。
先ず、仕事を見つける事と保育園を見つけることが先決だった。
よく、仕事をしていなかったら保育園の入所資格がなく、預け先を確保していなければ仕事が出来ない、という乖離した状況をどう考えるのか、と聞くがまさにその通りで、ほぼ同時にそれら二つの問題は決着させなければならない。が、そんな簡単な問題ではない。真面目なシングルマザーだった私は一刻も早く何らかの仕事を見つけ子供を育てなければ、という緊張と責任感で毎日駆けずり回っていた。それでもなかなか二人の子供たちをしっかり育てられるような仕事は見つからない。
幼い子供たちをつれて、市役所南館に何度通った事か。その時に親切にしてくれた職員さんの事は一生忘れない。あなたに助けてもらわなければ、私、どうしていいかわからないんです、、という状況。
今、市役所の子育て関係の課の脇を歩いていると、お子さん連れの同じような境遇のお母さんかなぁと思われる女性をよく見かける。あの時の私と同じだ、と思う。こういう真面目なお母さんがきちんと報われるようにしなくては。私のような思いをさせてはならない。
さて、上の子は三年保育の幼稚園に通っていたので、運動会が終るまでは通わせたいと思っていた。親の都合でやっと慣れてきた幼稚園を辞めさせたり、新しい保育園に入れたり、3歳児にとってはストレスだと思う。でも、これでしか私たち3人で暮らせないんだよ、こうするしかないんだよと言い聞かせ私は毎日泣いた。
とにかくどこでもいいから保育園に入れてくださいとお願いし、下の子は3歳までの保育しかできない園だったが見つかった。折しもパートだったが保健医療センターで仕事も見つかった。
9月から新しい生活がスタートした。仕事は市内だが8時45分始業。幼稚園への集合場所へ連れて行くのは9時15分。息子は朝早くに連れて行くとして、どう考えても一人では回らない。配偶者はいないけれど、子育ては一人ではできない。こういう時に助けてくれたのはママ友だった。もちろん両親も。
朝は幼稚園の友達の家に上の子を預けて、登園時間まで子供を見てもらった。私はその足で下の息子を遠方の保育園に預けに行き、そのまま出勤。
帰りは幼稚園に母が娘を迎えにいってくれて実家で過ごし、就業後、私が保育園に息子を引き取りに行ってから実家に娘を引き取りに行く。その繰り返し。毎日くたくたで子供の寝かしつけより自分が寝落ちして、目が覚めた深夜に家事の残りをしたり。それでも何とか出来たのは周囲の助けがあったからこそ。気持ちよく預かってくれた友人や親には感謝してもしきれない。
幼稚園を辞めて、二人とも保育園になり、自転車の前後に子供たち、両手に布団を引っかけて毎日通園、出勤したけど、体力があったからできたんだろう。丈夫に生んでくれた親に感謝。
小学生になり、学童に預けていたので、夏休みのプールに子供たちが行けたのも、ママ友が朝プールの時間まで預かってくれたから。働いているお母さんたちはどうやって夏休みのプールに参加させるのだろう?
ずっと習いたがっていたスイミングとピアノも、自分で通えるようになるまでは無理だよと言い聞かせ、やっと三年生になって、自分で行かせた。よそのご家庭は送り迎えに親御さんが付き添われていたが、私にはできなかった。帰りは同じ方向のお友達とお母さんが一緒に帰ってくれた。ピアノは家の前で娘の友達が一緒にランドセルを机に宿題をして、お迎えを一緒に待ってくれていた。
私の仕事は最初はパートで、5年目から試験を受けプロパーになった。有給休暇は子供の病気と学校行事であっという間になくなってしまう。それでも気持ちよく休ませてくれた職場には感謝感謝。
私は自分が下した決断で、子ども達を不幸にしたくはなくて、必死に頑張って来た。子供たちをきっちりと育てることしか考えられなくて余裕は全くなかった。時間も、お金も。
三人で寄り添って暮らせることが幸せで、同じ布団で一緒に子供たちを抱きしめながら寝るのが癒しだった。
今でも子供たちが小さかったあの頃が一番幸せだったなぁとも思う。
悲しかったり、辛かったことはたくさんある。子供たちを車でどこかに連れて行ってあげれなかったこと。みんなが行っているキャンプや東京ディズニーランドにも行けていない。ひとり親家庭は大阪府が万博公園の無料パスをくれるので、入園料250円でも貴重で良く利用させてもらった。外食する余裕も当時はなかったので、おにぎりを作って子供たちを自転車の前と後ろに乗せて、よくピクニックにいったのがやっと子供たちにしてあげれた事。生活費もちょっとしんどくて土日更にバイトを入れてたのであまり遊べなかった。さすがの私も身体を壊してしまったが。本当は小さい子供たちといろんなところに遊びに行きたかったなぁとそれは少し後悔している。
私が疲れ果てて寝てしまい、洗い物をしていなかったから、保育園の娘がきっと見よう見まねで洗ってくれたが、包丁で手を切ってしまった事。それに気づかなかったこと。辛かった。
仕事で連合運動会に行けなかったこと。それを責められたこと。子供の成長を存分に味わなかったこと。
そして、色々あったが子ども達も成長し、小学校も卒業し、中学生になった。もうあまり病気もしなくなった。私も少しゆとりが出来て、生活を回すのに必死、だけでなく色々考えるようになった。
この子育ての経験は必ず還元しないといけない。
それだけではない、私の生まれ育った愛するふるさと茨木市とお世話になった方々に恩返しをしたい。
例えばここに1,000万円あります。
1人の子供の心臓移植に1,000万円かかります。
1,000人の子供が下痢で亡くなるのを防ぐ教育と薬に1,000万円かかります。
さて、あなたはどうしますか?ちなみにこれに正解はありません。
でも、私は1,000人の子どもを救うために1,000万円使いたいんです。そしてそれを政治と言います。
多くの人々をいっぺんに幸せにする制度と決断をすること、それが政治の力なんだと私は考えます。
私がみなさんに恩返しできること。それは、誰もが幸せに暮らせる、困難な時に手を差し伸べる、辛いときに利用できる制度を作る事。
例え私が死んだ後も、その制度さえあれば、多くの方々に何十年と利用してもらえる。
そう考えると政治って夢があると思いませんか。
ところで、もし自分の子供が心臓移植をするのなら、そちらに1,000万円は使わせて頂きます。それでいいんです。
高校生になった娘と「そしてバトンは渡された」という映画を観ました。
とても感動するお話で、絶賛されていいました。今も評価が高いです。
お父さんが次々と代わって名前が変わっていく主人公のお話で、最後に謎が明かされ、母の愛に号泣するのですが、、
娘は大笑いして言いました。「この映画のお母さんに感動してみんな泣くけど、うちのお母さんの方がもっと凄いで!病気をしないし、男の力を借りずに二人も育てた!」
私の姿に感動して泣いてはくれませんが、、、ああ良かったと思った瞬間でした。